認知症と遺言能力
高齢化社会が進むにつれ、認知症の高齢者の方も増加しており、判断能力が低下した高齢者の遺言の効力が争いになることが多くなってきました。
認知症の方も遺言をすることは可能なのか、認知症と遺言能力について解説します。
遺言能力とは
(1)遺言能力
遺言は、法律行為(当事者がした意思表示どおりの権利の発生・変更・消滅などの法律効果を発生させるもの)の一つです。
当事者の意思に基づいて法律効果を発生させる以上、遺言をするには一定の能力が必要であると考えられます。
このような、有効な遺言をすることができる能力のことを、遺言能力といいます。
遺言能力のない者の遺言は無効になります。
(2)遺言能力に関する民法の規定
それでは、どのような場合に遺言能力があると認められるのでしょうか。
まず、遺言能力に関する民法の規定を確認しましょう。① 年齢に関する規定961条 15歳に達した者は、遺言をすることができる。満15歳以上であれば、未成年者であっても遺言をすることができるということです。② 行為能力に関する規定962条 第5条、第9条、第13条及び第17条の規定は、遺言については、適用しない。未成年者の法律行為についての法定代理人の同意(5条)、成年被後見人の法律行為についての成年後見人の取消権(9条)、被保佐人の法律行為についての保佐人の同意(13条)、被補助人の法律行為についての補助人の同意に関する規定(17条)を適用しない、つまりこれらの者の同意は不要で、成年被後見人がした遺言を成年後見人が取り消すこともできないということですただし、成年被後見人は事理を弁識する能力がないことが通常の状態であることから、遺言をするには特別な方式によらなければならないとされています。(民法973条)
成年被後見人が事理を弁識する能力を一時的に回復した時において遺言をするには、医師2人以上の立会いがなければならない。
2 遺言に立ち会った医師は、遺言者が遺言をする時において精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く状態になかった旨を遺言書に付記して、これに署名し、印を押さなければならない。ただし、秘密証書による遺言にあっては、その封紙その旨の記載をし、署名し、印を押さなければならない。
(民法973条)
③ 能力の存在時期に関する規定963条 遺言者は、遺言をする時においてその能力を有しなければならない。
(3)遺言能力の具体的内容
(2)で紹介した民法の規定からは、遺言をする「能力」とはどのようなものか、具体的内容は明らかではありません。
ただし、遺言も法律行為である以上、意思能力(自己の行為の結果を弁識する能力)は必要と考えられます。
このことは、962条が成年被後見人の遺言を後見人が取り消すことを否定しつつ、973条で成年被後見人が事理を弁識する能力を回復した場合に、遺言時に事理を弁識する能力を欠く状態になかったことを医師が確認することを条件に遺言することができると規定していることからもわかります。
一般的に、遺言をするには、この意思能力があれば足りるとされてきました。
意思能力は、おおむね7歳から10歳程度であれば認められると言われています。
(4)なぜ財産行為より緩やかに効力が認められるのか
それではなぜ、遺言の場合、財産に関する法律行為(契約など)より緩やかに効力が認められるのでしょうか。
まず、遺言は身分行為であるという理由があげられます。
伝統的に遺言は身分行為とされており、身分行為は同意になじまず、本人の意思に基づく必要があると考えられています。
また、遺言の場合、本人の意思を尊重しても弊害ないということもあげられます。
遺言は、遺言者が死亡して効力が発生するものですから、契約などの通常の財産行為と異なり、本人が遺言の効力によって不利益を受けることはありません。
ですから、本人を保護する必要はなく、自己の行為の意味さえ分かっていればそのとおりの効力を認めていいと考えられたのです。
さらに、本人の最終意思を尊重すべきであるという理由もあげられています。
遺言能力の有無の判断
それでは、どのような場合に遺言能力(意思能力)があるとされるのでしょうか。
(1)認知症でも遺言ができるのか
遺言能力の有無が争いになるのは、遺言者が高齢で判断能力が低下していたと主張される場合がほとんどです。
なかには、遺言者が遺言前に医師の診察を受け、アルツハイマーなど認知症との診断を受けているケースもあります。
しかし、遺言能力の有無は、医師の医学的判断を尊重しつつ、裁判官の法的判断により決められるとされています。
したがって、医師が認知症と診断したとしても、それだけで一律に遺言能力が否定されるわけではありません。
ひとくちに認知症と言っても症状の進行は人それぞれですから、事案ごとに遺言能力の有無が判断されることになるのです。
(2)遺言能力の判断で考慮される要素
それでは、裁判官は遺言能力の有無をどのように判断しているのでしょうか。
過去の裁判例から、遺言能力の有無は、次のような事情を総合的に考慮して判断されているようです。
① 遺言時における遺言者の精神上の障害
② 遺言内容そのものの複雑性
③ 遺言内容の不合理性、不自然性
①の遺言時における遺言者の精神障害については、精神医学的な観点からの精神医学的疾患の存否、内容、程度や、行動観察的観点からの遺言者の遺言時やその前後の行動から判断されます。
②の遺言内容そのものの複雑性は、遺言の内容に着目したもので、①の遺言時における遺言者の精神障害とも関連します。
たとえば、特定の相続人に全財産を相続させるという内容であれば、内容は単純で、その意味を理解するのにそれほど高度の能力を必要としません。
ですから、判断能力が低下していても意思能力が肯定される場合もあります。
これに対し、財産の分配が複雑であったり、遺留分や相続税にも配慮したりといったように、遺言の内容が複雑である場合には、より高度の判断能力が必要とされます。
③の遺言の不自然性、不合理性は、遺言の動機・理由、遺言者と受遺者との関係、遺言者と受遺者以外の相続人との関係、遺言に至る経緯などさまざまな事情を考慮して、遺言の内容が不自然、不合理ではないかを検討するというものです。
認知症と遺言能力に関する裁判例
それでは、認知症を理由に遺言能力の有無が争われた近時の裁判例から、どのような事情が考慮されたかを確認しましょう。
(1)遺言能力が肯定された例
被相続人(大正10年生まれ)名義の平成23年9月6日付け自筆証書遺言が存在し、その内容が遺産をすべて被告に相続させるというものであった事案。
原告が、被相続人は、平成23年9月当時、原告との会話において返事の仕方がおかしかったなどと様々な異常事態が生じていたものであり、十分な判断能力を有していなかったと主張したが、被相続人が医師であり、平成23年当時、非常勤医師として、毎月10日以上、勤務をしていたこと、平成23年8月、タイ王国に出張していたこと、自筆証書遺言の内容はそれ自体簡明であって、複雑な内容ではなく、その作成に要する能力が高度である必要はないことから、遺言能力を肯定した。
(東京地方裁判所平成29年10月23日判決)
上記【(2)遺言能力の判断で考慮される要素】について捕捉すると、
①の遺言者の精神上の障害については、遺言者が精神科等の診断を受けた形跡がなく、原告が、原告との会話において返事の仕方がおかしかったなどと主張するのみで、精神医学的な観点からの裏付けがない事案でした。
そのため、裁判所は、遺言者が、遺言当時、医師という高度に専門的な知識を要する職業に従事し、遺言の直前には海外に出張していたという外形的事実を認定したにとどまっています。
また、②遺言内容そのものの複雑性については、上記のとおり、遺産を全て被告(被相続人の子の一人)に相続させるという単純な物でした。
さらに、③の遺言の不自然性、不合理性については、被相続人の法定相続人は、妻と二人の子(本件の原告と被告)であるところ、本件自筆証書遺言は、被相続人が妻の将来の生活を考慮する中で、若年性認知症を患っている原告ではなく、被告に全て相続させ、被告に対して妻の療養、看護等を責任もって行うことを命ずるものであるから、被相続人において、本件自筆証書遺言を作成する動機がないということはできないとしました。
公証人作成の平成22年第××××号遺言公正証書による被相続人の遺言について、被相続人の子である原告らが、本件遺言の受益相続人に対し、本件遺言が無効であることの確認等を求めた事案。
被相続人は、本件遺言の当時、認知症状の進行した状態にあり、理解力や判断力にも相応の障害が生じていたものと推認することができるが、なお他者との意思疎通が十分に可能な状態にあったということができること、本件遺言の内容は、わずか3条からなるものであり、その要旨は従前の遺言を撤回して、本件土地を被告又はその長男に相続させるというものにすぎず、複数の者に多数の遺産を配分するようなものではなく、殊更に複雑な判断や理解を必要とするものとは解されず、被相続人の当時の認知能力によっても理解が困難なものであったとはいえないとして、遺言能力を肯定した。
(東京地方裁判所平成28年1月29日判決)
本件では、①の遺言者の精神上の障害については、、認知症状が進行していたものの他者との意思疎通は可能であったとし、②遺言内容そのものの複雑性については、遺言の内容がわずか3条の簡明な物であったことから、被相続人にも理解ができると判断されました。
また、③の遺言の不自然性、不合理性については、公証人に対し遺言を撤回する動機を概括的に述べており、不合理とまではいえないと指摘しています。
(2)遺言能力が否定された例
被相続人の相続人である原告が、被相続人名の自筆証書による遺言について、被相続人の意思能力の欠如、方式違背及び真意不明を理由にその無効の確認を求める事案。
被相続人は、平成15年ころから短期の記憶力が著しく低下するとともに、一応の意思伝達はできるものの、平成20年ころには、娘の名前も分からなくなっており、平成21年5月27日ころには、被相続人は、金銭管理や買い物も全くできない状態となり、日常の意思決定も1人では妥当な判断ができないほど思考能力、認識能力が低下していたことから、その時点から約4か月前の本件遺言書が作成された同年1月30日の時点においても、被相続人の思考能力、認識能力は同程度であったものと推認し、被相続人は平成21年1月30日時点で、自身が複数の不動産を所有していること、そのうち一つの建物とその敷地の各所有権と、別の建物の共有持分3分の1を法定相続人の1人である被告に相続させることを適切に理解するだけの判断力を有していなかったとして、遺言能力を否定し、遺言を無効とした。
(東京地方裁判所平成28年6月3日判決)
本件では、①遺言者の精神上の障害について、判断能力の低下が著しいこと、②遺言の内容も比較的複雑なものであることから、遺言能力を否定したものと考えられます。
被相続人の長女である原告が、被相続人の二女及び養女に対し、遺言公正証書による遺言が無効であることの確認を求めた事案。
被相続人は、本件遺言証書作成当時(当時85歳)、既に認知症に罹患し、その症状が進行を始めていたものと考えられること、本件遺言証書には養女の氏名や遺言者の生年月日など3か所に誤記があるのに、被相続人が公証人等に誤記を指摘することがなかったのであり、被相続人は、遺言書案を十分に認識することができなかったと認められるが、それは認知症その他の理由により、その内容を理解する能力を欠いていたためであると考えられること、被相続人が、遺言作成当時、必ずしも被告のみをかわいがり、あるいは被告のみに感謝をして、原告については疎んでいたなどという事実はうかがわれないにもかかわらず、被相続人の遺産の大部分を占める本件不動産を、被告らのみに相続させ、その一方で原告に対しては何ら配慮をしないというものであり、前記の被相続人と原告及び被告との関係に照らして不合理なものと言わざるを得ないことから、遺言能力を否定し、公正証書遺言を無効とした。
(東京地方裁判所平成28年3月25日判決)
本件は、②の遺言の内容は複雑なものとはいえません。
しかし、①遺言者の精神上の障害については、被相続人が認知症にり患しており、被相続人が相続人の名や自身の生年月日の誤記を認識できなかったことから遺言の内容を理解する能力が欠けていたとし、③遺言の不自然性、不合理性についても、原告に何ら配慮しないのは不合理であるとして、遺言能力を否定したものです。
高齢の方が遺言をする場合の注意点
このように、遺言能力の欠如を理由に遺言が無効とされるケースは決して珍しくありません。
そのような事態を避けるためには、判断能力に疑いの余地がない時点で遺言書を作成しておくべきです。
とはいえ、心身ともに健康なうちに遺言書を作成しようとする方は少なく、体力の衰えや物忘れなどを自覚するようになって自分の死後のことを意識するようになり、遺言を検討し始めるという方が多いでしょう。
そこで、そのような高齢者の方が遺言を残したい場合の注意点を紹介します。
(1)公正証書遺言にする
公証人は意思ではありませんので、公正証書遺言を作成したとしても直ちに遺言者の遺言能力があったとはいえず、公正証書遺言が無効とされたケースもあります。
しかし、公正証書遺言には、自筆証書遺言と比較して、次のようなメリットがあります。
まず、自筆証書遺言の場合、法律で定められた要式を満たさなければ、遺言者に遺言能力があったとしても効力が認められません。
これに対し、公正証書遺言の場合、公証人が遺言書を作成してくれるので、そのようなおそれはありません。
また、公証人は、遺言者や相続人とは利害関係のない第三者ですから、3.⑴で紹介したように、公証人とのやり取りが裁判における証拠になる場合もあります。
さらに、自筆証書遺言の場合、遺言者の自筆であるかが争われることも珍しくありません。
遺言能力が争われるようなケースでは、遺言能力の欠如にあわせて、「認知症が進行して字も忘れていた」「手が震えて字が書ける状態ではなかった」などと主張されることも多いのです。
公正証書遺言は、公証人が作成するため、そのような主張をされるおそれはありません。
(2)医師の診察を受ける
後日、遺言能力の欠如を主張された場合に備えて、遺言を作成する前に医師の診察を受け、認知症の検査を受けておくといいでしょう。
簡単な質問に回答する認知機能テスト(長谷川式認知症簡易評価スケールなど)は、費用も時間もそれほどかかりません。
より詳しく症状を知るにはCTやMRIなどの画像検査がありますが、費用は高額になります。
どこまでの検査をしておいた方がいいかは遺言者の状態によって違いますから、医師とよく相談して決めるようにしましょう。
(3)日常的に記録を残す
それ以外にも、遺言当時の遺言者の状況を記録に残しておくといいでしょう。
たとえば、遺言者自身や同居の親族が、日記などで遺言者の日常の生活状況を克明に描き残しておくことが考えられます。